砂漠に魅せられたバイク青年の熱き想いが、世界一の冒険ラリーを生んだ

 
アフリカに魅了されたフランスの一青年、ティエリー・サビーヌが78年の暮れに始めた壮大なサハラ砂漠への挑戦、それが「パリ・ダカール・ラリー」の起源である。もちろん始まったばかりのパリダカにはクラス分けなどなく、四輪、二輪、そしてカミオンが漠然とダカールを目指し、アフリカに上陸した時点で「そういえば飯はどうすんだ?」といったような、いかにもフランス人らしい冒険旅行であった。まさにアマチュアリズムに満ちた冒険心一杯のラリーだったのだ。やがてモータースポーツとしての形態を鮮明にし、ワークスチームの参戦を経て、「パリダカ」はラリーのひとつの代名詞として大きな飛躍を見せてきた。

DAKAR
アフリカの広大な大地を利用した一斉スタート
創生期のパリダカはパリをスタートし、地中海を渡ってアフリカ大陸の玄関口アルジェに上陸し、広大なサハラ砂漠を横断。途中アガデスで休息日を挟んで、セネガルのダカールにゴールするというルートは、途中テネレ砂漠などの幾多の難関を設けて挑戦する者の冒険心とその探求心を満たしてきた。この壮大なパリダカには第3回から日本人チームも初めて参戦し、パリダカの存在が日本でも注目されるようになってきた。そして84年、第6回大会にポルシェが元F1ドライバーのジャッキー・イクスらを擁して、911の4WD版959を持って参戦。パリダカに、もうひとつ「スピード」という要素が加わって、そのラリーの行方が大きくクローズアップされるようになってきた。

こうしてパリダカは世界でも最も壮大なイベントとして認知され、参加台数も四輪、二輪、そしてカミオンを加え500台の大台を越えるようになり、競技運営も軌道に乗ってきた矢先、86年の第8回大会中に悲劇が起こった。競技の陣頭指揮をとっていたサビーヌのヘリコプターが墜落し、帰らぬ人となったのである。やはりサハラは過酷だったのだ。しかしサビーヌの意思は変わることなく実父・ジルベールらによって継承され、今日までパリダカの精神として生き続けている。

1988 DAF
200km/hオーバーで砂漠を駆け抜けたDAF(オランダ)
87年、第9回大会には世界ラリー選手権(WRC)の覇者プジョーが205 T16 GRを擁して、パリダカに参戦。アリ・バタネンらがドライブする2台の205を優勝に導くために、競技部門にエントリーしサポートを担う四輪&クイックサポートカミオン、パーツの大量輸送を担当する大型のアシスタンスカミオン、さらに大所帯のエアメカニックという物量作戦を背景に、優勝を飾る。カミオン部門でもオランダのダフがツインエンジンのモンスターカミオンを駆り、圧倒的な速さを見せつけた。この時期からトップチームではワークスカーを後方から支援する重要な担い手としてカミオンの存在が大きくクローズアップされるようになってきた。88年の第10回大会からは4年間に渡り日本企業が冠スポンサーにつき、日本でも爆発的な人気を博す。ラリーと言えばパリダカと言われたほどであった。

ティエリー・サビーヌが78年に始めたパリダカも、ポルシェやプジョーの参戦によって名実共に国際的なイベントになっていく。こうした背景もあって、89年の第11回大会から車両規則などがFIAのルールに統一され、クロスカントリー・レイドのひとつのカテゴリーの頂点に位置づけられることになる。
一方、78年以来、アフリカの玄関口となっていたアルジェが政情不安のため、チュニスに変更。さらに90、91年にはトリポリとなり、さらに92年にはパリダカの伝統は一時中断。パリをスタートしてアフリカ大陸を縦断し、南アフリカのケープタウンに至るルートの「パリ・シルト・ルカップ」となり、パリダカは通過国の政情不安に揺れる、混迷の時期に入ってしまった。しかし、93年の第15回大会からルートはその玄関口をモロッコに求め、パリダカは再びサハラに戻ることになる。

LAC ROSE
ピンク色に輝くゴール地ラック・ロゼ(セネガル)
80年代後半に一世を風靡したプジョーに代わり、91年からシトロエンがZXラリーを持って登場。三菱パジェロと激しいつば迫り合いを見せた。日野チームが4台のレンジャーを率いて初参加を果たしたのもこの年である。レンジャーが初参戦初完走を果たしたこの時期、カミオン部門の頂点に君臨していたのが、圧倒的なパワーの2サイクルディーゼルエンジンを搭載したペルリーニ(イタリア)で、90年代初頭は毎年1、2位を独占する強さを見せた。94年、ティエリーの父ジルベールが引退し、パリダカの主催者TSOはアモリー・グループに売却され、新たな体制での門出となる。日野レンジャーはこの年、追いすがるペルリーニを下し、国産車として初となるカミオン部門準優勝を獲得。90年代中盤から後半にかけて、日野、タトラ(チェコ)、カマズ(ロシア)の三強時代を迎えることになる。

97年、第19回大会からのパリダカは、ルートのマンネリ化から脱するために、従来のイメージにこだわらず、97年のダカール・アガデス・ダカールや00年のパリダカ・カイロなどバリエーションに富んだルート設定が目立つようになっている。一方、TSOはワークス車両のスピードがあまりにエスカレートしたことに対し、97年よりメーカーチームからのプロトタイプ車両の出場を禁止した。この変更を受け、同年よりシトロエンが撤退し、非メーカーの立場で出場を続けていた元F1ドライバーのシュレッサーが率いるバギーが活躍を見せる。ただ、メーカー同士が争う華やかさに欠けていたことはいなめなく、02年に改正された車両規則により、メーカーからのプロトタイプ車両が認められ、世界各国のメーカーがしのぎを削る優勝争いが繰り広げられている。

また、02年は現在のパリダカの骨格となっている競技規則が定められた年で、同年よりビバークを飛行機で巡るエアメカニックが廃止され、すべてのメカニックはアシスタンスカーでの陸路移動を義務づけられた。カミオン部門においてもカマズやタトラといったエンジンをミッドシップに積んだ車両の出場が禁止され、すべてのカミオンがフロントエンジン車両で争われることになり、現在に至っている。そして03年末、長らくパリダカの代表として活躍していたオリオールが勇退し、主催者ASOはパリダカの顔を失うが、現代表エチエンヌ・ラビーニュを中心とした強力な組織力で、現在のパリダカ人気を支えており、93年大会では200台以下に落ち込んだ参加台数は徐々に回復し、05年大会は過去最多となる689台の参加者を集めた。その後も06年、07年大会ともにエントリーが殺到し、07年大会はパリダカ史上初めて申し込み開始時から数週間で全エントリーを締め切る事態となった。

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